先祖の墓からルーツ調べてびっくりする。


祖先の話

酒席の戯け話で祖先の話をする時「平家の末裔」だとか「源氏の血を継ぐ」とかとても昔の調べようもない話をする人がいる。「へ~ぇ!実は私の祖先も平家の落人で」とか「私が源氏の・・・」妙に話が盛り上がったりして、「嘘つけ!あほか!源氏と平家だらけになっちゃうじゃないか!」などと言ったら喧嘩になってしまう。まったくつまらん話だけどあくびしながら聞くふりをする。

父方の祖先は住職をしていて、このゴールデンウイークにその寺に初めて訪れてみた。
その寺で住職をしていた祖先は私の息子「智德」から数えて五代前
「陽一」--「敬一」--「義一」--「冨山」--「租英」(全て実名)
家系図もなく親から聞かされてきた祖先である。

以前にも当BLOGで書いた事がある。
ここをクリック
重複する記事もあるが実際に行ってみて調べてみたら「びっくり仰天」の事があったので報告をしたいと思う。(誰に?自分にデス・・・)
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弐銭切手と壱銭切手が貼ってある。
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下総香取 津宮4.12 税相済←(切手が貼ってある事が確認済ということかな?)本州香取郡香取邨 新福寺住職 新正祖英殿 ←(地番が無くても届くのね)萬藏院住職 谷本梅紋←この住職からの手紙

■曹洞宗 新福寺の現在の住所は佐原市香取1833
香取神宮のすぐそばである。
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今の新福寺の住職に話を伺った。現在の住職は新福寺の32代目との事。
我が新正家は23代~26代前後の3~4代をこの寺の住職をしていたらしい。この寺で新正家最後の住職は冨山爺だったのだろうか?祖英住職の後の住職は僧職を辞したと教えて下さった。
私の親からもこの曽祖父は大酒飲みで正に「シンショウ(新正)潰した(笑)」と聞いている。破戒僧だった事があきらかである。そして残念な事に冨山の名は一切新福寺にはなかった。

さてここからが本題
永代供養墓には、納骨するという機能の他に、納骨者の記録を保存するという役割も担っいる。
墓誌には主に、納骨者の氏名(俗名)戒名(法名)などが刻字されている。
それが重要な記録となる。

初めて訪れた先祖の墓

とても立派な一枚岩の墓石
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祖英は私の父親がかなり尊敬する人物だった。
何でも松平の大名籠が献上されていた阿闍梨だったとか全く意味のわからん私に自慢話をしていたものだ。阿闍梨かどうかはわからないが1枚岩の裏面に刻まれた墓誌には「最興院」←祖英の事。埼玉縣旧忍城主「松平下総守家臣 葛畑半平次男」が俗名となっている。出家する前は松平下総守家臣の葛畑半平次男いう家臣(武士)だったらしい。

■忍藩(おしはん)は、江戸時代の武蔵国埼玉郡に存在した藩の一つ。藩庁は忍城(埼玉県行田市本丸)に置かれた。おそらく時代背景からすると「旧忍城主」と記されている事からこの親方様か?。

松平 忠敬(まつだいら ただのり)
安政2年7月14日(1855年8月26日) - 大正8年(1919年)11月15日)は、武蔵忍藩の第5代(最後)の藩主。父は米沢藩主の上杉斉憲(忠敬は六男)。母は松平頼恕の娘。正室は伏見宮邦家親王の12女・節宮。官位は従三位。

幼名は篤之助。1869年4月、先代藩主の松平忠誠の養嗣子となり、同年6月の忠誠の死去により後を継いだ。同年の版籍奉還で忍藩知事となり、従五位に叙任する。
その後藩政改革を行なうが、1871年7月の廃藩置県で忠敬の封地は従来通りでだったが、同じ年の11月には忍県・岩槻県・川越県が廃され新しい県域が定めらた埼玉県が誕生する。武蔵県知事がおかれると忠敬は退城を余儀なくされた。翌月に殿様離別の宴が3日間行なわれ、松平忠敬は多くの藩士に見守られつつ、坂巻の船着場から免官されて東京へ移る。1872年にイギリスに留学し、1884年に子爵となる。しかし旧藩士の不正事件などがあってその地位を追われ、故郷の米沢に戻って中学校教師を務めた。1895年に東京へ戻り、1919年11月15日に65歳で死去した。

さて松平様から私の祖先へ話を戻そう。
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「圓通院慈雲妙光大姉」と刻まれた墓石と「新正」と刻まれた新しい墓石がお寺の本堂を挟んだ道路対面側の一番手前に鎮座していた。祖英の奥さんは墓石の裏の記述から明治14年8月5日富山縣新下川郡殿村生れで、大井四郎左衛門の娘と記されている。
日露戦争の際第一野戦附看護率として満韓戦地に其の任を盡し38年10月凱旋其の功勞に勲八等に叙せらる。明治45年5月31日病気の為享年32歳で亡くなると記されている。
松平忠敬の家臣であったの葛畑(祖英)は武士として落城を見て僧侶となり、若くして亡くなった妻へ想いを馳せる爺「祖英」は僧として人間として寂しかっただろうなぁ。

■「びっくり仰天」
最初に私の息子の実名を記した。
私の現在の名字が「新正」でなくてもあきらかに父方の血縁は「新正」である。
新正家の墓石の中に驚くべき戒名があった。
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何と、「智德院」と刻まれた墓石が有る。
「え!」妻も私も驚きのあまりに顔を見合わせて言葉も出ない。

私が生れて初めて訪れた父方ルーツであるこの寺の祖先の墓石に「智德」という息子の名前が刻まれている事は私に子供が生まれた時はこの名前にと決まっていたとしか思えない。

しかも地画数まで同じの「智德」これってあまり書きたくないけれど父、母が離婚して母親姓を名乗った時、徳と德の一角で名前の良し悪しが変わるのよね。(あまりそういうの気にしない方だけど、子供の名前だけは調べた)う~む、父母の離婚まで考えて御祖先様は息子の名前まで考えてくれていたのだろうか?

ちゃんとお墓参りには行かないと悔い改めました。。
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Tracked from 西本願寺の永代供養 at 2009-06-05 10:19
タイトル : 西本願寺の永代供養
西本願寺は、親鸞聖人の浄土真宗本願寺派本山の寺院で京都府京都市下京区にあります。西本願寺の永代供養では永代供養の供養料や納骨そして永代供養の種類などを紹介しています。 ... more
Commented by Ponda at 2009-05-06 03:15 x
この世のまか不思議な現象とはまさにこれですね!
Commented by minabozu at 2009-05-06 08:28 x
Pondaさん、今回のお墓参りも1度ぐらい来なさいと導かれた感じです。行きは大渋滞で3時間半、帰りはガラガラの1時間半。これも御祖先様のご加護のおかげ?(笑)
Commented by 半平の子孫 at 2010-10-03 21:46 x
minobozo様
なんとなく自分の苗字でググってみたら、私のご先祖様の名前が・・・
半平の長男は4or5代前の私の先祖です。
葛畑は死んだバーさんいわく「清和源氏 太田氏の流れで有名人は太田道灌」のようです。ちなみに我が家は曹洞宗です。
遠い遠い親戚ですね。
Commented by minabozu at 2010-10-04 10:04 x
半平の子孫様

それにしても驚きました。葛畑兄弟の家系ならまさしく親戚にあたります。近年は親戚の方々とも疎遠になっており、このような場でまだ知らぬ親戚の方からの書き込みをとても嬉しく思います。半平の長男子孫様が5代前なら私の息子と同じぐらいの年齢、4代前なら私に近い年齢化でしょうか。曹洞宗は本山が総持寺と永平寺と二つあるそうですが、葛畑半平次男はどうやら横浜鶴見の総持寺で修行をされたようです。しかし奇跡というか、軌跡というか、めぐり合わせに驚きを感じます。これもご先祖様のお導きかもしれませんね。機会がありましたらご連絡下さい。
by minabozu | 2009-05-05 17:48 | 気まぐれ日記 | Trackback(1) | Comments(4)

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